鴨下琳斗、Vision Proを試す

観察:カズヒコ・鴨下琳斗 / 言葉:カズヒコ

川崎のApple Storeのガラス扉は、自動では開かない。少し重みのあるその扉を自らの手で押し開ける直前、鴨下りんとはかけていたメガネを外してポケットにしまった。

「多分そこはもう一般的な人と同じだと思うよ」

彼は体験前に、自分の見え方に感じてることはないと言っていたが、体験できるかどうかの話になると不安が口をついた。

「見えてるから大丈夫だと思うけど、目の動きでやってるっていうから。ほら斜視だからさ」

薄い生成りのオーバーサイズのシャツに、ダブダブのズボン。彼は裸眼のまま、明るい店内の喧騒へと足を踏み入れた。

視線入力のキャリブレーションは、案の定弾かれた。空中に浮かぶポインターを彼は二本の指で繰り返しタップしていく。しかし狙うべき位置そのものが、彼には見えていない。三回失敗した後、担当の女性が別の男性を連れてきた。がっしりした体格の男性スタッフがVision Proを慣れた手つきで付け直し、背中をそっと支えながら「顔を上げてください」「背筋を伸ばして」と声をかける。四回目のキャリブレーションも失敗した。

「本体を交換するしかない」――話し合うスタッフたちの顔に苛立ちはなく、むしろ「体験できずに帰らせるわけにはいかない」という静かな熱を帯びていった。

結局、彼の手元にあったメガネにスタッフが気づいたことで事態は動いた。店内の機械でレンズの仕様を読み取り、Vision Pro専用のインサートレンズを組み込む。別の男性スタッフが調整されたVision Proを持ってくると、五度目の装着。彼はようやく「ボケがなくなった」と小さく呟いた。

体験が始まると、傍らで見ている私の目には、彼の姿はどこか奇妙に映った。何もない空間に向かって両手の指を突き出し、宙をつまんだり、右から左に手を振ったり、両手の指を横に広げて見えない何かを引っ張ったりしている。彼は同じ動作を何度も繰り返して、操作のコツをつかんだようだ。スタッフが見せてくれた体験コントロール用のiPadでは、彼がYouTubeを検索してアニメーションを再生する様子が映し出されていた。

予定の三十分を大幅に超え、一時間半に及んだ体験が終わり、彼が頭からゴーグルを外したときだった。彼の鼻からツーと赤い筋が垂れていた。極度の集中からか、鼻血だった。生成りのシャツに赤い斑点が散る。

私が止血をし、口の周りを拭う間、周りのAppleのスタッフたちは決して慌てふためくことはなかった。ただ適切な距離を保ち、「何かあったら何でも言ってください」とだけ声をかけてくれた。

私がアルコール入りのティッシュでシャツの血の痕をこすっていると、彼は私の手元を見下ろした。

「白っぽいの着てきちゃった。赤い服を着てくればよかった」

彼の口から出たのは、どこか申し訳なさそうな、冗談めかした言葉だった。彼は鼻の頭をそっと押さえた。

血が止まり、店内を出た私たちは、ラゾーナ川崎のルーファ広場へと向かった。円形の広場には人工芝が敷かれ、本物の樹木が植えられている。大型ビジョンが設置されたアクアステージの周囲を囲む階段状の段差に腰を下ろし、私は体験の振り返りを聞くためにボイスメモアプリをタップした。彼はニコニコしているのかいないのか、判然としない微妙な表情を浮かべていた。

「色は、黒と白」

彼の印象に残ったのは、前半の空間写真の美しさやイマーシブ映像の没入感ではなく、後半の操作中に表示されていた背景画像の月面のイメージだった。

「映像を見てるだけだったら、あーって口を開けながら見れるけどさ。探りながらやってた時間だからこそ、頭に残ってるんじゃないかな」

「触り心地とか、音とか……」私は体験について質問を続けた。彼は答えられず無言の往復が続いた。

私は質問を変えて、「指の動きとか」と具体的な動作について尋ねてみた。

「かなり練習しないと、なかなか大変だったわ」
「機械もリントさんも歩み寄らないと、まだ2人の間に溝がある感じかな」

彼が何度も繰り返していた何もない空中での手振りは、私には軽やかに楽しんでいるように映っていた。しかし、彼の内側では、直感通りに動いてくれない操作のもどかしさとの終わりのない格闘が続いていた。指先の微細なズレに悪戦苦闘するアナログで泥臭い姿だったのだ。

「VIP対応だったね」と私がスタッフの動きについて続けると、遊園地で接客業をしている彼は、ぽつりとこう返した。

「見てた。職場で活かせるところがあったら、盗もうかなと思いながら」

キャリブレーションが失敗するかもしれないという不安と自分の鼻血というハプニングの最中にも、彼は観察者として、物事の裏側を知ろうとする眼差しを向けていた。

しかし、視線でポインターを追う操作については、意外な言葉が返ってきた。

「最初の目線やるの、すごく懐かしい」。

「懐かしい?」

「目のレッスンで、散々目で追うことはよくありましたから」

彼が口にしたのは、子どもの頃に眼科で受けた斜視治療の記憶だった。最新のデバイスの操作が、彼の身体の奥底に眠っていた感覚を呼び覚ましていた。

最後に彼は、「もうちょっと直感的がいい」「それでも、いいもんはいいもん」とAppleへの期待を嬉しそうに口にした。不満はあるものの、Appleのアクセシビリティ対応に対する彼の評価は揺らがない。
そうした信頼とは関係なく、最悪の事態を予測して準備するのが彼の流儀だとも明かしてくれた。

「私のメガネ、プリズム入ってるから。もともと体験できない人側に片足突っ込んでる、と思ってた。半分ダメ元で来たわけだから」

彼は初めから覚悟を決めて、どこか孤独に体験に臨んでいた。

日が傾きかけた七夕のルーファ広場には、下校途中の学生や通勤客の賑わいが溢れ、目の前を多くの人々が通り過ぎていく。インタビューの間、大型ビジョンで同じ動画が何度も繰り返し流れ、大音量の女声のアナウンスが二人の会話をたびたび打ち消した。声が拾えない録音の失敗を私は不安に感じていたが、ステージに腰掛ける彼は、その喧騒から少し離れた場所にいるように見えた。

最先端の空間コンピューティングが映し出したのは、未来ではなく、彼自身の身体に刻まれた過ぎ去りし日の情景だった。

機械と自分の間にある未だ埋まらない「溝」と、そこを繋ごうとした人間たちの静かな熱。それを知っても距離を作ってしまう、変えられない孤独な自分の流儀。それらを確かめるように、彼は軽く宙を見つめた。

広場を吹き抜ける風が、血の痕が薄く残る生成りのシャツを、静かに揺らしていた。

← ホームに戻る