この資料について
北山田(横浜市都筑区)の富士塚「山田富士」を中心とした歴史を、検証済みの史実と地域に伝わる伝承・回想に厳密に仕分けて時系列で整理したもの。
仕分けの基準
– 【史実】 … 一次資料(『新編武蔵風土記稿』)・横浜市の公的資料・新聞報道など、複数または公的なソースで裏付けが取れる事項。
– 【伝承・回想】 … 後掲の底本(男全冨雄氏の回想記)や地域の口伝に由来し、第三者資料では検証できない事項。事実として断定も否定もできない。底本(伝承・回想部分の出典)
男全 冨雄(おまた とみお)「山田富士の歴史」株式会社みつや不動産 公式サイト
https://www.mitsuya3.co.jp/page01/yamadafuji/
伝承・回想部分の文責と著作権は原著者に帰属する。
1. 江戸時代 — 富士塚と信仰の拠点
文政11年(1828年)成立 ―【史実】
幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』都筑郡山田村の項に、以下が記録されている。
- 「太子堂山」に「富士塚」があり、高さは「十丈」(約30m)。
- 山の中腹に「太子堂」(五間×二間・南向き、約一尺の聖徳太子立像を安置)。
- この山と太子堂は、村内の「長泉寺」が所有・管理していた。
原文(翻刻):
「太子堂山、北ノ方ニアリ、此山ニ富士塚トテ高サ十丈ハカリアリ、又半腹ニ至リテ太子堂ヲ建ツ、五間ニ二間、南ニ向エリ、太子ハ根ノ立像、長一尺ハカリ、村内長泉寺ノ持」
富士塚の構造 ―【史実(第三者資料と整合)】
富士塚は実在の富士山を模し、緩やかな「御殿場口(東)」・急勾配の「吉田口(南)」の登拝道と、山頂の「お鉢(火口)」を備える本格的なもので、地域の富士講の人々によって築かれた。
江戸〜昭和初期の年中行事 ―【伝承・回想】(底本より。第三者資料では未検証)
- 7月1日の総出の草刈り:連絡網もない時代から「朝5時、村中総出」で、崖の足場でマムシと遭遇しながら草を刈り、富士を自主管理する慣わしが、のちに公団移管まで続いたという。刈り場は北から重代谷戸・しんなし谷戸・稲荷谷戸・芝生谷戸に分けられていた。
- 7月下旬の雨乞い:農家代表が大山(伊勢原の大山阿夫利神社)へ代参して持ち帰った水を、山田富士の山頂へ担ぎ上げ、「六根清浄」を唱え、水に浸した笹を振って「サンゲサンゲ(懺悔懺悔)」と雨を祈ったという。
- 4月8日(灌仏会):大釜で甘酒を沸かして子供に振る舞い、満開の桜の下は地域最大の娯楽の場だったという。
2. 昭和(戦中)— 出征と演習の場 【伝承・回想】
底本の回想による。第三者資料では検証できない。
- 山田富士は青年学校の軍事演習場となり、若者が匍匐前進・山頂突撃の訓練を繰り返した。
- 出征する若者の送別会は灯火管制下の太子堂で行われ、新聞紙に載せたサツマイモの輪切りや芋の茶巾絞りが「故郷最後のご馳走」だったという。
赤松の移植 ―【要注意:年号のズレ】
底本は「昭和十三年(1938年)=紀元二千六百年記念事業として、山頂付近の赤松の大木一本を、天皇の近衛師団閲兵の背景の松として皇居へ移植した」と回想する。
- 注記:「紀元二千六百年」は皇紀2600年=昭和15年(1940年)を指し、底本の「昭和13年(1938年)」とは2年のずれがある。記念事業に向けた準備期(1938年)の関連事業であった可能性はあるが、「紀元二千六百年=昭和13年」と読むと事実誤認になる。移植の逸話自体は底本以外に裏付けがなく未検証(原著者も皇居で該当の松を確認できなかったと記している)。
3. 昭和(戦後)— 太子堂の青春 【伝承・回想】
底本の回想による。
- 青年会は太子堂を維持するため年貢米(一反につき米一合)を集めて長泉寺へ納め、富士一帯を村の共有地として使い続けたという。
- 太子堂横の運動場で、裸電球を吊るして夜間にバスケット(対・富士通)やバレー(対・中川町)の試合をし、素人芝居や敬老会も催したという。
4. 平成 — ニュータウン開発と富士塚の保存
港北ニュータウン造成に伴う出来事 ―【伝承・回想】(時期の特定は底本になし)
- 遺骨の発見:造成工事中、「昔ここで亡くなった僧を葬った松がある」という古老の言い伝えの場所を掘り起こしたところ遺骨が出て、長泉寺の住職が供養・埋葬したという。
- 地蔵をめぐる交渉:横浜市への移管に際し、市から「信仰対象の地蔵・石仏は公園内に置けない」と撤去を要請されたが、住民が反対し、「現場で祭礼は行わない」旨の誓約により現在地に残すことで決着したという。
1996年(平成8年)11月5日 ―【史実】
山田富士(富士塚)が横浜市登録地域文化財「地域史跡」に登録された。
5. 現在
港北ニュータウン・北山田駅前センター街づくり協定 ―【史実】
北山田駅周辺を美しい南欧風の「オアシスタウン」にするためのルール。1階の店舗利用による賑わい創出、明るい茶系の勾配屋根や自然素材風の外壁、ベンチや花壇のあるくつろぎ空間づくりなどを定めている。
山田富士公園 ―【史実】
現在の山田富士は「山田富士公園」として整備され、桜の名所となっている。最寄りは横浜市営地下鉄グリーンライン北山田駅(電車の営業開始は2008年〈平成20年〉3月30日)。
- 注記:公園化後、頂上付近まで樹木が育ち富士塚の山容が見えにくくなった点を、底本は惜しんでいる(回想)。
北山田駅「さくら時計」―【史実(現地プレートで確認)】
北山田駅入口に「北山田駅開通記念 さくら時計」の銅板プレートが掲示されている。プレートの文面は次のとおり(現物写真で確認)。
由来は桜の名所"山田富士"のさくら/桜は日本古来の美と心の象徴/さくら時計は北山田駅のシンボル/出逢う人 集う人 そして住まう人/みな心はさくら・・・
- 日付:2008年3月29日(開通記念)。寄贈:北山田商業振興会・南設備工業株式会社・株式会社光電社。
- 開通記念イベント(2008年3月29日〈土〉):北山田駅前広場・山田富士公園で開通記念イベントが開催され、駅の開所式(北・南ゲートのくす玉割り、テープカット)、「さくら時計」の除幕式、開通祝賀会(祝宴・演舞・ミニSL・模擬店・フリーマーケット)が行われた。桜満開の快晴のもと約8千人が来場。主催は北山田商業振興会、港北ニュータウン中川地区同志会北山田支部、北山田町内会、南山田町内会、すみれが丘町内会。
2008年(平成20年)3月30日 ―【史実】
1965年の横浜市六大事業により港北ニュータウン構想がスタートし1985年に横浜4号線として具体化。工事の着工は2001年。40年以上の歳月を経てグリーンライン開通と同時に北山田駅が開業した。
出典
原記事(伝承・回想部分の底本)
- 男全 冨雄「山田富士の歴史」株式会社みつや不動産 公式サイト
https://www.mitsuya3.co.jp/page01/yamadafuji/
史実・注記に用いた資料
- 『新編武蔵風土記稿』都筑郡山田村の項(文政11年成立/翻刻引用。原本=国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 横浜市登録地域文化財「地域史跡」登録記録(横浜市)/Wikipedia「山田富士」
- Wikipedia「横浜国際プール」「北山田駅(神奈川県)」
- 北山田駅入口「北山田駅開通記念 さくら時計」プレート現物(2008年3月29日/寄贈:北山田商業振興会ほか。利用者提供の写真で確認)
- みつや不動産ニュース「グリーンライン北山田駅開通イベント(2008年3月29日)」 https://www.mitsuya3.co.jp/news/news20080329/
- タウンニュース都筑区版「横浜国際プール メイン『廃止』が決定」(2025年3月13日)
- タウンニュース都筑区版「プール廃止、半数が『理解』」(2024年10月3日)
- 横浜市「横浜国際プール 施設概要」資料(愛称公募・応募700通超の記載/0034_20230726.pdf)
- 横浜市スポーツ施設等指定管理者選定評価委員会 議事録(第4回。面接審査での委員意見として、指定管理者の基本方針「おらが国プ」の表現に再考を求める記載)